『つなぐ川プロジェクツ』

YaH株式会社代表の島貫です。

私は埼玉県で幼少期を過ごしました。40年ちかく前のことです。
生き物好きな子どもだったので、昆虫採集をしに雑木林へよく出かけていましたが、
田んぼの用水路では小魚をとって遊んでいました。
水路を塞げるくらいの大きさの網を下流側に置き、上流から棒で水面を激しく叩くと、
バケツがいっぱいになるほど魚が採れました。
今では見ることのできない思い出の中だけの光景です。

みなさんの子どもの頃はどうでしたか?

今の子どもたちは川で遊んだ経験がほとんどないと思います。
子どもたちに「川に近づくな」と言っていませんか?
少子化で子ども自体の数も減ってきて、昔のように川での安全な遊び方やルールを
教えてくれるガキ大将もいなくなりました。
川で遊んでいて溺れて亡くなる子どものニュースが跡を絶たず、
子どもが川に近づくのは怖い。そう思う気持ちはよくわかります。

でも一方で、川で遊んだことがある方は、その記憶から、
子どもに川遊びを体験してもらいたいとも思っているはずです。

安全な遊び方をしてもらえるなら。

そこでYaH株式会社では、川に接する最初の一歩になる道具のキットを開発し、
子どもたちがキットを組み立て、実際に川で使ってみるイベントを企画しました。

道具の使い方だけでなく、道具の歴史、材料のこと、材料の木材が育った森のこと、
そして川での使われ方、川が山と海をつないでいること、川漁師のこと、
川魚のこと、川魚料理、川の文化のこと、川での遊び方、川の災害、
川の恐ろしさまで様々なことに触れます。

道具を通して川を知ってもらい、川に関わる方法を学んでもらいたいと思っています。

川に関わる方法が一つわかれば、子どもたちは自分で調べるようになります。
どんな関わり方をすることが自分にとって気持ちが良いか、
川の未来について自分で調べ、自分で行動できる子どもを増やすことが、
この「つなぐ川プロジェクツ」の目標です。

また、いつか故郷を離れることになる子どもたちにとっては、
川での楽しい思い出が故郷に戻るきっかけの一つになれば、という願いもあります。
サケが水の匂いを覚えていて、いつか生まれた川に帰ってくるように。

そして、川の現状を知ることで、いつか川に関わる道を選んでくれたら、
この「つなぐ川プロジェクツ」は真に成功したと言えるのではないでしょうか。

「つなぐ川プロジェクツ」は、
箱メガネから始まり、川と海,山,人,暮らし,文化…

さまざまなモノ・コトをつないでゆきます。

よくデザインされたツール

こんばんは、ミツヲです。

いろいろと不満の多かった協力隊時代でしたが、
一方で、ジオパークに関わる多くのことを吸収できた時期でもありました。
今携わっているジオパーク活動の土台を形づくっているのは、間違いなくこの2年間です。

ジオパークは他に類を見ない制度だと思います。
世界遺産もジオパークも同じユネスコの登録制度ですが、
ジオパークは世界遺産よりもよく考えてデザインされていると思います。
ジオパークが特に重視しているのが持続可能性です。
持続可能性をつくりだす3つの軸「教育」「保全」「ジオツーリズム(地域振興)」があり、
2軸を1軸が支えるような構造になっているので、
どれか1軸が欠ければ全体はバランスを崩してしまいます。
そして、ジオパーク同士がお互いの活動に貢献しつつネットワークを強くし、
「ジオパーク」というブランドを確固たるものにしていく。
そういうところにも持続可能性を追求する姿勢が見えます。

持続可能性と共に大切にされているのが「人」だと思います。
『ジオパークは人である』と言われるように、
ジオパークは「人」がいなければ成り立ちません。
その地域が「ジオパーク」になったその先、
どのような地域を目指そうとしているのか、明確なビジョンを持っている地域だけが
「ジオパーク」を名乗ることが許されます。
「ジオパーク」になることが目的の地域は「ジオパーク」を名乗ることが
できません。

「ジオパーク」を、柵で囲われた公園のようなものだと思う方も
いるでしょうが、実はそれだけでなく、「ジオパーク」は、
そのブランドを利用して地域をつくっていくツールだと
言い換えることができると思います。

かたちのあるデザイン・かたちのないデザイン

転機

こんばんは、ミツヲです。

私が応募した遊佐町地域おこし協力隊のミッションは
自治体へのジオパーク普及でした。
ただ、ジオパークが何なのか知っていたわけではありません。
以前携わっていた自然教育に近い仕事だろう、という程度の認識でした。
生きていくために選んだ新しい仕事でしかなかったので、
それで良かったのだと思います。
しかし、協力隊の任期を終える時には次の仕事を見つけていなければならない、
という危機感だけは強く持っていて、着任後すぐにその準備をはじめました。
左手が不自由になってしまったので、
普通の仕事はもうできないだろうとも思っていました。
ただ、この時は自分で起業しようという気持ちがあったわけでは
ありませんでした。

そうして次の仕事を漠然と探し始め、
ジオパークのガイド養成講座を受けることになりました。
ジオパークが何なのか全く解っていなかったわけですから、
それを知るためにも丁度良い機会だったというわけです。
そして、その養成講座で先程のビッグネームの話に結びつくわけです。

その後、協力隊の仕事は2年で幕を引くことになります。
ジオパークガイドとして報酬をもらいながら協力隊の仕事も続けていくのは、
町の協力隊の制度的には難しかったようで、
プロのジオパークガイドとして活動を本格的に始めたかった私は
協力隊を途中で辞めることを考え始めました。
そうこうしているうちに町との折り合いもつかなくなり、
契約が打ち切られることになりました。
隊員の定住を図ることが制度のねらいであるにもかかわらず、
勤務中はその準備をさせてもらえないという大きな矛盾が
協力隊制度にはあると思っています。

ここは男鹿半島・大潟ジオパーク

こんばんは、ミツヲです。
2015年6月、私は縁あってこの山形県庄内地方にやってきました。

ただ、その縁は実は20年前に始まったものでした。
1997年1月6日放送のドキュメンタリー番組、NHK『生き物地球紀行』で取り上げられていた
清流・牛渡川に私はすっかり魅了されてしまったのです。
牛渡川は百名山・鳥海山の麓を流れる小さな川で、様々な貴重な生き物が生息しています。
番組の中で特に印象的だったのは、水面に白い花を咲かせるバイカモと透き通る川の水でした。
幼い頃から、川といえば埼玉の荒川を流れる濁った水のイメージが強かったので、
水中から撮影された透き通る水の映像は、私の心を一瞬で持っていってしまいました。

その時に感じた「いつか行ってみたい」という気持ちが私の記憶の中にずっと残っていました。
そして、木工の仕事で左手に大怪我を負い、病床で次の仕事を探していた私の意識を遊佐町に運んでいきました。
2014年の終わり頃、私は遊佐町地域おこし協力隊の求人情報を見つけたのです。

とても透き通っているので、水がない様にも見える

ビッグネーム

こんにちは、ミツヲです。

庄内には魅力がたくさんあります。
食べ物も風景も文化も人も…

『でも、チラシに名前を載せて人を連れてくることができるのは「鳥海山」だけ』

3年前、ジオパークのガイド養成講座に出席していた時、同期の仲間から言われた言葉です。
その人は庄内に生まれ、登山ガイドとして活動しながら地域の観光にも深く関わっている人でした。

このフレーズが、私が起業を意識し始めた最初のきっかけでした。
「鳥海山」以外にも、核となるネームバリューのある場所・ものをつくりたい。

これが始まりです。

秋田県羽後町から見る鳥海山